はじめに 古道との出会い 立川の街道 立川の鎌倉街道 一里塚 多摩川の渡し

街道古道廃道道

はじめに

古来より道は仕事の為、物資を運ぶ為、人に会う為、軍事上の為、社寺に詣でる為と多くの人がいろいろな思いを秘めその道筋に従いながら通ってきた。そんな道の歴史を少しでも調べたいと思っている。道は何処までも果てし無く続く様に私の道への探求も続けたい。消えた道、寸断された道、変化した道、呼び名の変わった道、むかしはどの様な道筋であったかを想像するのはなかなか楽しい、古い地図を広げながら現在の地図と比較して見る。一日中見ていてもあきない。そんな妄想の一端を紹介したいとホームページを作成したので間違いもあるかと思う。道の名称や道筋それに付随するものとして、古地名、橋の名、鉄道の踏切の名なども出来るだけ集めてみた。古地名など今の地図には全く痕跡がないので実際の道を歩いて今でも目にする事が出来る物も別にまとめてみた。


古道との出会い

現在の羽衣町の地図を見ていた時、三中東側の北へ延びる道と羽衣住宅東側の道が離ればなれになっているが一直線でつながりそうなのに気が付いた。古い地図で調べると昔は一本道になっており、田村道と言う古道である事が分かった。これが古道を調べてみようと思ったきっかけである。そしてその道で立川と谷保村の境にしているのも分かった。なんと現在私が住んでいる羽衣東町会の辺りは谷保村だったと記されている。市町村の境界線が途中で変わるなんて事が有るのだろうか。信じられない事で有る。そして調べを進めている内に昭和23年に住民の要望で立川へ編入された事が分かった。当時谷保村から遠く離れ飛び地の様な状態で住民は不便であったと言う。又、同じ番地内でも東町会と本町会に分かれているのも昔の田村道で町会の区分をしているらしい事が分かったのである。この田村道、江戸末期の柴崎絵図にも載っており、田村道の北側で直角に西へ境を変える部分や斜めにもう一本の道とぶつかって五差路となっているところなど東へ進む一本の道を除いては今の地図と良く重なるのである。東側の道は造成された新しい道。田村道の名は少し前の地図でも国立側の土地の名として出てくる。東京女子体育大学の北側の地名として見る事が出来る。田村道の南側を進むと多摩川になりそこには満願寺の渡しがあった旨の説明書きの看板が立てられている。この満願寺の渡しは上流に日野橋が出来るまで住民の足として利用されたと言うことだ。


立川の街道

錦町和田下坂の旧甲州街道

立川の中で街道と呼ばれるものを列挙してみると甲州街道、江戸海道、日野海道、五軒家街道、伊奈海道などがある。街道は海道と呼ばれる事も多かったようだ。◯◯道と呼ばれているものや◯◯海道と書かれた場合もあり区別は判然としない。甲州街道の場合初めは海道と呼ばれていたが海端を通らないと言うことで、甲州道中と変更されている。立川の古道は飛行場建設や区画整理で部分的に消えた道やほとんど消えてしまって分からなくなっている道も多い。古い地図等で調べてみるとかなりの道筋を辿る事が出来るが痕跡がなく辿れない道も幾つか有る。清戸街道と言う道も字名のみ残っているだけでどこを通っていたのか分からなくなっている。同じ道でも複数の名称が有り別の道と思ったりして間違えている場合もある。富士見町富士塚前を通る江戸海道は西へ向かえば拝島道、東へ向かえば江戸海道と呼ばれていた様だ。大正時代の国立の地図には拝島道と出ている。その他の道にも拝島道と呼ばれている道がある様に同じ名称で別の道だったりして調べるのを難しく、いや面白くしている。立川には柴崎村から東へ向かっているもう一本の江戸海道も存在する。


立川の鎌倉街道

諏訪神社東側の古道

立川にも鎌倉街道があったとはおどろいたが鎌倉に通ずると思われた道は鎌倉街道と呼ばれ関東一円にあったと言う。諏訪神社東側を通る諏訪道が鎌倉古道であると言う。おそらく鎌倉街道上道の支道と思われるがはっきりしたことは分からない。諏訪神社東側から普済寺前を通り澤の集落から坂を下り多摩川の河原に出て川を渡り、関戸にでも通じていたのだろか。

甲州街道の一里塚

府中市本宿にあるNECの構内に甲州古道の一里塚がある。江戸日本橋から数えて8里目に当たると言う。又日野市万願寺にある一里塚は10里目だと言う。この間直線にして5キロ弱である。9里目の一里塚は何処に有るのだろうか。国立市と府中市の境に一本榎木の一里塚というものが残っており、距離が短い事から間の一里塚ではないかと思われている。これが甲州古道の9番目の一里塚ではないのだろうか。距離が短い事の理由は多摩川の川筋の変化と関係あるのではないだろうか。古多摩川の流れは現在より北側を流れていたと考えられ、段丘下近くであった。ただ今はうまく説明出来る材料を持っていない。

一里塚一覧表 一里塚地図

多摩川の渡し

日野の渡しの碑(立川の下水処理場近く)

甲州街道は何度かその道筋を変えている。始め甲州古道はNECの一里塚から段丘下の四谷の田間を経て谷保村から多摩川へ出て石田の渡しから対岸へ渡った。中央自動車道下の満願寺の渡しから渡ったとも考えられる。次に段丘上に上り青柳稲荷前を通り至誠学舎東側の貝殻坂より河原に出て満願寺の渡しで満願寺の一里塚方向へ向かったと思われる。又次に、多摩川の流路等の変化等で貞享年間には柴崎村近くの日野の渡しへと移動した。羽衣町東の田村道が多摩川の土手とぶつかったところに日野橋が出来るまで使われた満願寺の渡しがあったと案内板が立っているが、貝殻坂下からの満願寺の渡しとは違う様な気がする。貝殻坂下の満願寺の渡しが使われなくなり、その後に出来た別の満願寺の渡しだろうと思う。甲州古道の進路を西にとり貝殻坂下より中央自動車道の下の満願寺の渡しでは遠回りになり、わざわざ貝殻坂まで来る必要はなく青柳稲荷手前の田村道を南に曲がり多摩川に出る方が自然である。田村道につながる渡しなのだから田村の渡しとでも呼んでいればはっきりしたのであるが。石田街道の先に石田の渡しが有り、満願寺道には満願寺の渡しが、日野海道には日野の渡しが有る。これが素直な理解の仕方ではないのだろうか。

甲州街道の変遷図 日野の渡し


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