羽衣町の地名 羽衣町の古道 東立川について考える 立川における国立地名

羽衣町の地名

向郷 東町会の立川編入 田村道と東町会 みのわ 矢川 羽衣町の古道 参考文献


向郷

羽衣町は古くは向郷と呼ばれていました。錦町4丁目の市営錦町住宅に向郷遺跡があるように、現在の羽衣町の全域が向郷では無かったようです。どうも錦町4丁目、羽衣町3丁目の辺りが向郷と呼ばれていたように思えます。向郷とは柴崎本村の人達からみて村のむこうの方という意味合いのようです。明治の始めの頃、柴崎村は神奈川県に属しており、明治7年、8年にかけて地租改正が行われ、旧来の字名は廃止されました。そして新しく22の字名が設けられ、一番地から四五五七番地までの通し番号が付けられました。

新字図

この時、現在の羽衣町2丁目、3丁目に向郷と新字名が付けられ、地番も三九六四番から四一五六番までが割り当てられました。1丁目は下古新田と下の原の一部になっていました。下古新田と下の原を分ける道は富士見町富士塚前を通る江戸海道に続く古い道です。そして新字名の向郷東側の道は田村道と呼ばれ、西側を通る道は満願寺道と呼ばれる古い道です。二丁目、三丁目を分ける道も府中砂川新田道と呼ばれる古い道なのです。こうして見ますと、古い道で字や丁目を区分しているのが良く分かると思います。田村道は柴崎村と谷保村の村境になっており、東羽衣町会の区域は谷保村に属していました。東羽衣町会が立川に編入されるのは戦後まで待たねばなりません。昭和一五年に立川が市制を施行すると、町名地番の整理に取りかかりました。当時立川の地番は分かりにくく、町名と地番の改正が急がれていました。そして昭和一七年一二月一日に現在の町名が発足したのです。羽衣町の町名もこの時から始まったのです。町名決定までの原案では曙町の町名が付けられていたのですが、現在の曙町に付けられる予定だった羽衣が落ちるイメージがあると飛行場を持つ軍からクレームが付き、羽衣と曙を入れ替えたと言う、話しも伝わっています。地図を見れば分かるのですが、羽衣町は立川の一番東に当たり、朝日が昇る曙の意味と良くあっているように思います。


 東町会の立川編入

昭和二三年東町会の地は谷保村から立川へ編入されました。当時東町会の地は谷保村から遠く離れ、東側には郵政研修所があり、飛び地のような状態でした。飛行場との関連で立川とのつながりが強かった住民は何かと不便を感じていました。そのため、住民の多くは立川への編入を希望していました。その当時の立川には陸軍航空支廠、陸軍資材廠、立川飛行機などの飛行場関連施設がありました。そこで働く人達の住宅として建設された経緯からも立川との結びつきを感じ取ることができます。航空支廠は西立川駅近くの踏切名に航空支庁と変化しながら残っています。第八方面本部の所にあった陸軍資材廠も資材省前踏切としてついこの間まで残っていたそうです。立川飛行機の前身は石川島飛行機と言い、立川飛行場に隣設し飛行機を生産していました。この会社は立飛として今でも存続しています。そして新しく出来た多摩都市モノレールにも立飛が駅名として生まれています。 


田村道と東町会

立川と国立の地図を見ますと道路の基線が違い、別々の考えで道路が作られた事が分かります。国立は中央線と同じく、東西と南北の傾きがなく整然と作られています。立川の道は古い道をほぼそのまま残し、それに沿って作られています。この道は多摩川を基線として出来ているため、30度ほど地図上では傾いています。南北の道では多摩川に対して直角になっているのです。羽衣町の場合を見ますと、これらが混在して出来ているようです。六小の東側の住宅地の南北の道路は国立にあわせ、東西の道路は立川にあわせています。そして東町会の所までくると、南北と東西の道路は国立と同じ傾きのない道路になっています。国立の宅地造成に合わせて作られた事が想像されます。この事からも東町会の地が谷保村に属していた事が理解されます。東町会の一画は田村道の西側の立川の部分も含んで造成されたので、この間の田村道は消えてしまいました。しかし現在でも本町会と東町会の境は古道の田村道で分かれています。この意味では消えた田村道は今でも生きているといえます。


みのわ
羽衣町3丁目の大半が畑だった頃、畑の中で縄文式土器の破片を簡単に見つける事が出来ました。立川3中を建設する時も、竪穴式住居の敷石が見つかり、古代から人が住んでいた事が分かります。3丁目に隣接する錦町にも向郷遺跡があり、多くの住居あとが見つかり、住みやすい所のようだったことが想像されます。南側の坂下には矢川が流れ、飲み水も得られ、南に面した高台で日当たりも良く、縄文時代の一等地だったかもしれません。この3丁目にはみのわ城があったという言い伝えが残っています。城は光西寺の辺りにあったと言われ、三輪又は箕輪と漢字で当てられています。城主は三輪次郎だったと言われています。しかし、立川のふるい字名が載っている検地帳にもその名は無く、まぼろしのみのわ城のようです。何分にも伝説のため、はっきりした事は定かではありませんが、”みのわ”自体は町会の名称や通りの名称、緑川に架かっていた橋の名称にも使われています。


矢川
羽衣町3丁目の立川段丘の下には昔から小川が流れています。付近一帯は矢川緑地として東京都の緑地保全地域として指定されています。今でも湧き水がでており、羽衣町で唯一の自然の豊富なところです。湿地の所には木道がひかれ、池の回りには木の杭が打たれて、以前とは少し趣を異にしています。古い地図を見ますと矢川は”谷川”と書かれています。矢川の名の由来は矢のように流れが速い事から付けられたそうですが谷川表記の方が古く、後から付けられたこじつけのようにも思えます。また、やのね川と表記されている古い地図もあります。これは矢の根(石鏃)が出て来たところから名付けられたという話しですが地元ではその様に呼んだ記憶も記録もなく、どのような経緯でその地図に載せられたのか判然としません。矢川の源流は立川7小の北側付近ですが江戸期の検地帳に井戸端の小字も見え、豊富な湧き水であったと思わせます。現在の矢川は緑川まで蓋がされ、どのくらい湧き水が出て流れているか確認できません。緑川の所では緑川の下を流れ、矢川緑地の所に出て来ます。その先は南東方向に国立を流れ滝乃川学園を経て、府中用水へとつながっています。


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