ライ麦畑でつかまえて/キャッチャー・イン・ザ・ライ 

〜The Catcher in the Rye 1951年


白水Uブックス(野崎孝 訳1964/1984)
白水社刊(村上春樹 訳2003)
平成15年12月16日

代を超えたベストセラーとなったサリンジャーのデビュー長編。

 ールデン・コーンフィールドが学校を追い出されることになった理由は、沢山あったとも、何にもなかったとも言えた。とにかく、クリスマス休暇を間近に控えた日、それは決定的なものになった。
歴史を教えるスペンサー教授に呼び出された彼は、先ごろ行われた試験の答案を突きつけられた。そこには彼自身が書いた、設問自体にまったく関心がもてないという言葉と、落第もかまわないという言葉があった。これについて質された彼が、いい加減なことを言いながら部屋を辞したとき、彼の三度目の放校が決まったようなものだった。
やることなすこと全てがつまらない。社会は汚らしいものに溢れ、学校にも矛盾が満ちている。学校が掲げる金科玉条は嘘っぱちだし、共に暮らす寮生たちも気に食わない奴らばかりだ。――たぶん彼はそういった不満のかたまりだったのだ。
その夜、彼の行動はたがが外れ、ルームメイトのストラドレイターと似合わない殴りあいに出て見事に玉砕した後、荷物をまとめて寮を抜け出してしまった。それはホールデンの幼馴染の女の子とデートをして帰ってきたと聞かされたからなのか、それとも頼まれていた作文の代筆をけなされたからなのか、彼にはよく分からなかった。とにかくホールデンは一足早いクリスマス休暇を無断で楽しむことにしたのである。
といっても、してやったという快感も無く、まったくウキウキした気分にもならず、取り立てて目的も思いつかない。生まれ育ったニューヨークへと向かった彼は、もちろん家に帰る気にもならず、小さなホテルに宿を定め、当ても無く街に身を投じていった。通りの向こうから少年の歌が聞こえる。――ライ麦畑でつかまえて・・・ライ麦畑でつかまえて・・・。


 雑把に言ってしまえば、“The Catcher in the Rye”は、時代特有の憂鬱を生々しい言葉で描き出した――物語だと言えるだろう。まったくもってありふれた言い回しであり、もはやこれだけでは何の意味もなさない言葉かもしれないが、まずそうした理解からはじめたくなってしまう。それは、まあ無理の無いところだろう。

一九五〇年代

 ではこの一九五〇年代という時代は、どのようなものであったのか。まずはそれを考えてみたい。
二次大戦が終結したのが一九四五年であるから、これは戦後という新時代のはじまりの時期である。この頃の日米の事情は大きく異なっていて、アメリカには日本人が実感できない独特な時代の空気があったろうと思う。
それは、若者の目の前から大きな目的が消えたという喪失感である。日本には、大きく見れば復興や経済成長という国の目的が、小さく見ても貧困から脱出し物理的な成功を得るという個人の目的があった。しかしアメリカの若者の前にはそうしたものは無かった。アメリカの国土は戦争によって何も傷ついていなかったし、すでにあらゆる意味でアメリカは世界一の大国であった。朝鮮戦争という新しい戦争も起きていたが、これはアメリカ本土には直接関係の無い地域紛争に対する介入で、完成された社会となったアメリカの勢いがあまったものといってもいい。そんな中に新しく育った世代の中には、自らの身体をそこに向かって動かずにはおれないものを見つけることが難しかったのである。
五〇年代と言えば、アメリカで最初のティーンズ文化が花開いた年代である。ロックという新しい音楽が登場し、それは大人には理解できない独特な美意識や価値観を代表する文化となった。彼らがなぜそうしたものに夢中になったのかといえば、それは社会の中に目的が無かったからだ。
こうした若者の目的の喪失は、日本ではもっと遅くなってから現象として現れた。つまり経済という戦いが国としても個人としてもある程度以上の成果を上げ、総人口のほとんどが中流意識を持つに至った七〇年代や八〇年代、若者の目的は曖昧なものになってしまった。社会的な目標よりも趣味に入れ込んで自分の内側に向かう「オタク化」や、「しらけ世代」などと呼ばれた無気力がはじまった。(間違いなく私もそのあたりの世代だ)
こうした状況の中、五〇年代のアメリカでも七〜八〇年代の日本でも、世代間の価値観の格差が他の時代よりもずっと大きくなり、新しい混乱が生まれた。旧世代に属し、目的を持って現在の社会を作り上げた大人と、その完成された社会で生まれ、目的を見つけることが出来ない新世代の子供。この齟齬は大人には存在自体が見えず、子供の未熟な言葉はそれを説明しきれない。そのため、子供たちは聞き分けの無い大人たちの築く厚い壁の前であがき、無様に傷ついていくしかなかった。ホールデンという少年も、間違いなくそうした一人である。

ロスト・ジェネレーション

 アメリカという国に住む者に、喪失感というある種の病が取り付いたことは過去にもあった。それは《ロスト・ジェネレーション》と呼ばれた作家たちが共感を得ていた二〇年代である。ヘミングウェイやスコット・フィツジェラルドのような作家たちが、古典的かつ絶対的な価値観の喪失という時代の中で、その淡い憂鬱を露にして見せたとき、人々はこれこそが時代の声だという感覚を持った。
一見するとフィツジェラルドあたりのひ弱で傷つきやすい主人公は、ホールデンと同じような人物に感じられなくも無い。『グレート・ギャツビー』のギャツビー氏はそれほどでもないが、短編の中に登場する目的の無いやわな青年たちはホールデンによく似ている。たしかにこの類似は偶然ではないだろうし、『罪の赦し』などを読むと宗教観にも通じるところがあり、サリンジャーがフィツジェラルドの影響を受けたということはあったかもしれない。
しかし、決定的に違うのは世代間の齟齬という重要な問題が、《ロスト・ジェネレーション》の作家の作品には見えてこないということがある。
ホールデンが社会や学校、そして友人たちを、「インチキくさい」ものとしてこき下ろすとき、彼は反社会的な思想に獲りつかれているわけではない。彼は子供としてまだ社会に属していない自分の立場を認識しており、だからこそ自分を含まない世界を平気で否定することが出来るのだ。しかしそうした自己認識(たぶん無意識の)がフィツジェラルドの小説には無い。「彼」は幾分社会から外れているが、やはり大人としてその中に自分が入っているべきだという前提があるのだ。
簡単すぎる理解かもしれないが、この違いは二〇年代と五〇年代の違いそのものであると言ってもいいだろう。

新旧の二訳

 今回の書評に際しては、野崎孝氏の訳『ライ麦畑でつかまえて』と村上春樹氏の新訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の二冊を併せて読んでみた。この二人はフィツジェラルドでも同じように新旧の対決をしている。
野崎氏の訳(現行なので「旧訳」とは言わない)は名訳として評価が高く、長年にわたって同作の決定版として親しまれてきたものである。びっくりするくらい乱暴な口語体で統一され、その言葉の選択にははっきりとした主張が感じられる。
しかし口語という文は時代と共に移ろいやすく、残念ながらかつて生々しく読者の胸を直撃した野崎氏の文章は、いまやすっかり鮮度が落ちてしまっている。はやい話が、いまこんな言葉で話す若い奴はいない。文語体であればいかに古典的なものであろうとも、普遍的なものとして評価することが可能だろう。しかし口語はそうはいかない。流行り言葉がすぐに恥ずかしいものになってしまうように、この訳は古びてしまっている。悲しいことだが、時代性を持ちすぎたということであろう。かつてはそここそが評価されたものであろうと思うが。
また野崎訳は、若干だがスラングにも弱い。たとえばホールデンが妹の小学校の壁で見つけて憤る落書きの「オマンコシヨウ」の原文は“Fuck you!”である。汚らしい罵りとして有名なこの言葉に、セックスへ誘う意味が薄いことは、現在なら誰でも知っている。また“Bitch”を律儀に娼婦だの淫売だのに訳しているのにも、同じような疑問を感じるところがある。
これらは一九六四年に訳出されたとき、こうしておかなければ原意が解らない状況であったからなのかもしれない。しかし現在では、乱暴な口語体を貫いているならなおさら、こうしたスラングの扱いにはどうにも違和感を覚えてしまう。
一方、村上氏の新訳は言葉の選択が普通で、とくに新しいということも無く、ある意味では当たり障りの無い印象も無くはない。しかしだからこそ平易で普遍的なものになっているとも言える。野崎訳から感じられる時代性が、古い日本の若者を感じさせてしまうのに比べ、村上訳は素直に五〇年代のアメリカの若者をイメージできる文になっている。スラングもそつなくこなしている。

村上訳の技術的な最大の特徴は、“You”という言葉の扱いに独特な主張が感じられることだ。言語の特性上、英語による文は主語を省くと意味が通じなくなってしまうために、“It”とか“You”とかのワードが日本語よりもずっと多用される。しかし通常の場合、これらを「それ」とか「君」とかに訳さず、省いてしまうことが多い。
こうした問題は、他にも英語を日本語に訳すとき数多く直面する。たとえば例文の初歩としてその昔教科書でよく使われていた“This is a Pen”とか“I am a Boy”を例として挙げると、この“a”に「単数の」という意味があることは大抵の人が知っている。しかしこれを翻訳するとき、「これは一つのペンです」とか、「私は一人の少年です」などとする人が何処にいるだろう。この“a”は文法上の都合で欠かせないだけで、文意に単数の強調があるわけではない。たぶん誰でも両方を省略するに違いない。
本作における“You”も、野崎訳では第一行目に「もし君が――」とある以外は、ほとんど全てが省かれている。技術的にもこれは常套であるし、口語を選んだ段階で十分に話している感じは出ているため、後はあえて書くまでも無く、しかも作中に具体的な会話の状況を活写している部分がまったく無いので、日本語としての「君」が適宜であるのかどうかは判らないからだ。この判断はきわめて妥当であると思う。
しかし、村上訳では一転して頻繁に「君」という言葉が登場する。村上氏は翻訳の常識を捻じ曲げてまで、この「君」という言葉を多用する文章を作り出しているのだ。
これは作品の性質を決定的に変化させるほどの問題である。つまり作品全体が、ホールデンから「君」という人物に対して語った物語になっているのだ。このときホールデンと読者の間の関係性が、ある種の限定を受ける。読者は当然「君」という役をふられてこの物語の中に組み込まれることになる。つまり村上訳では読者はホールデンにはなれないのだ。
正直言ってこの形がいいのか悪いのか、私には判断できない。読者が個別に決めればいいのだろうと思う。ただ、今回の訳でたぶんもっとも村上氏が拘った点が“You”にあるのは間違いないだろう。
私としては、結局この物語はアイデンティティを確立しきっていない少年が、モラトリアムな葛藤の中で自分自身と向かい合う戦いであったと感じ、ならば彼が話していたのは「君」ではなく、自分自身であったのではないかという想像をする。しかるに野崎氏の聞き手不在は私としては非常に腑に落ちるものがある。また表題の『ライ麦畑でつかまえて』からして原題からすれば主客が転倒しており、これもまたホールデンと「君」の二重性に近く、ある意味で一貫性がある。
しかし村上訳で読んでいると、ホールデンの脈絡の無い話に何も突っ込まずに黙って聞いている「君」という人物の存在がイメージされてならない。この人は当惑しているのか、呆れ果てているのか、それとも同情のあまり何も言わないのか、こうした想像は野崎訳で読んでいるときはまったく湧かない。ホールデンである自分と「君」である自分がごちゃごちゃになり、心の中で自問自答をしているような感覚を受ける。
また、これは個人的な感覚だが、「君」、「君」と頻繁に呼びかけられる語りは、どうも不自然な感じがしてならない。少なくとも私は会話する上でこんなに「君」を使わない。意図が明確なのはいいことかもしれないが、自然さという点で大いに疑問である。


ライ麦畑でつかまえて

 さて、概論的な部分ではなく、もうすこし作品世界の中に入っていろいろと書いてみたい。といっても、この物語はディテイルの羅列に限りなく近く、それぞれのシークェンスで読者のどのような感情を持っても、どのようなビジョンをイメージしても自由だ。自己の経験や考えに照らし合わせて、勝手なことを思えばいいのだ。だから私も勝手なことを書くだけだ。

ホールデンは純粋で傷つきやすい人間だ。頭もいいし、モラルもある。しかし彼自身はまったく逆のことを言い、逆のことをしようとする。簡単に言ってしまえば、彼は理想と現実のアンビヴァレンツに苛まれているのだ。眼の前にある景色に割り切れない思いを感じ、それを未熟な彼は消化できないのだ。
また、父親の不在という意味も、重要なものとして見逃せない。父親は同性の先輩として、こうした自己形成の不全な子供に対し、やはり何らかの役割を負わねばならないものであろうと思う。簡単ではないのだが、子供の思う理想としては、何かはっきりとした回答を与えてほしいと思う。
しかし間違いなくホールデンの父親はそうした義務を放棄している。彼を息子を全寮制の学校に放り込み、放校になってもまた新しい学校に放り直すだけなのだ。最初の学校からドロップアウトしたとき、父は息子が何故そんな不始末をしでかしたかを考えたのだろうか。もちろんそれなりの悩みはあったのかもしれない。しかし行動としては何も示してやらなかった、少なくともホールデンが感じるようなことは何もしなかったのは確かだろう。
作中でホールデンは、この父のことをほとんど思い返すことも無い。仕事にばかり入れ込んで、自分を振り返ることも無い背中ばかりの遠い存在、それが父親なのだ。
序盤で不意に踊りだしたホールデンがルームメイトの前で、自分は知事の息子だ――という場面がある。たわいない冗談ではあろうが、やはり立派な、誇れる父親がほしいのだ。実も蓋も無く言ってしまえば、ホールデンが学校という枠の中に納まりきらないのも、社会を斜めに見ているのも、既存の権威を馬鹿にするもの、すべて父親に対する反抗である。そして冒頭の話に戻すなら、父親こそが旧世代の代表なのだ。
たぶん兄のD・Bという人間は、ホールデンにとっては父よりもずっと身近でありながら、しかし目標になるほど先を行く存在であったのだろうと思う。しかし兄はシナリオ書きとしてハリウッドに行き、たぶんその仕事があまり上手くいっていないのだろう。(たとえばスコット・フィツジェラルドのように)そんな姿を見て、彼は自分がこれから経験する挫折を予感してしまったのかもしれない。

こうしたホールデンのアンビヴァレンツが象徴されているのが、タイトルになっている“The Catcher in the Rye”だ。将来の目的を見出せない彼は、ライ麦畑の中で遊ぶ子供たちを、崖に落ちる危機から救う“Catcher”になりたいという意味不明な夢想を幼い妹に話して聞かせる。
このとき、子供たちというのは、もちろん話し相手のフィービーも含まれるが、幼い頃の自分と、もちろん死んでしまった弟のアリーをイメージしている。平和で何の疑問も無かった少年時代、彼は世界が自分を受け入れない存在だとは知らなかった。すべての子供たちが、いまの自分のように、途方も無い深みに落ちてしまわないようにしてあげたい。
すでに書いたが野崎訳では『ライ麦畑でつかまえて』と、本来の意とは主客が転倒している。ホールデンが、自分をつかまえてほしいという願望をこめたような表題になっている。これは小説全体の意図を的確に表現した意訳であると思う。


ヘミングウェイの『日はまた昇る』でも似たような感想を持ったが、こうした小説はあらすじをまとめるのに苦労する。筋らしい筋が無く、目的らしい目的も無いので、取捨選択がうまく出来ないのだ。またこの作品では主人公の語りの中で物語が進むのだが、要約しながらこのスタイルを残すのが難しい。
今のあらすじは、あくまでもホールデンの外側に視点を据え、彼の行動を直接描写したり、その考えを推測したりするスタイルをとってみた。作品のスタイルとは正反対だが、それは批判的な意図があったわけではなく、むしろ逆である。私はホールデンではないから、彼が思っていることを、彼に成り代わって書くことは出来ない。きれいに要約して状況を整理してしまっては、もうホールデンの言葉ではなくなってしまうからだ。