ハヤカワ文庫(『アクロイド殺し』田村隆一 訳 1979)
創元推理文庫(『アクロイド殺害事件』大久保康雄 訳 1956/1975)
新潮文庫(『アクロイド殺人事件』中村能三 訳1956/1987)
集英社文庫(『アクロイド殺害事件』雨沢泰 訳1998)
- 平成11年11月10日/平成14年7月11日再読
著者の名を一躍有名にした代表作の一つ。誰もが知る斬新なトリックによる不朽の名作。

静かな田舎町キングズ・アボット村で、その事件は起きた。はじまりはひっそりと、しかしどこか謎めいて――。
- ファラーズ夫人がヴェロナールの飲みすぎで突然亡くなったとき、詮索好きな一部の村人はこう考えた。一年前の夫の死は彼女による毒殺で、いまそれを悔いて自ら命を絶ったのだろうと。しかし次の晩、夫の死後夫人との仲を噂されていた地元の名士ロジャー・アクロイド氏が殺害されたとき、その意味は大きく変わった。
- アクロイド氏の死因は刺殺であり、明らかな他殺である。そしてその日、氏は夫人からの最後の手紙を受け取っていた。開封の瞬間に居合わせたシェパード医師によれば、その内容は驚くべき告白で、夫人が噂どおりの罪を犯しており、しかもそれを種に脅迫されていたというものだった。しかし氏は書かれている名を明らかにせずにそのまま殺害され、現場から手紙は消えうせてしまった。夫人の死は本当に自殺だったのか、謎の恐喝者は誰だったのか、そしてその者がアクロイド氏の口を封じたのだろうか。
- 地元警察の捜査により、氏の甥ラルフ・ペイトンが当日から失踪していたことが判明する。また、彼には遺産相続の動機と、人間関係のこじれを思わす傍証が見つかった。ラルフの婚約者であるフロラは、村で隠遁中の探偵を担ぎ出す。それはなんと犯罪捜査から手を引き、静かな余生を過ごすつもりで村に移り住んできていた、エルキュール・ポアロその人だった。
- あえて説明するまでも無いが、この作品は著者の最も有名な作品の一つであり、その衝撃的な内容は発表以来、専門家にも高く評価され、多くの読者に親しまれてきたものだ。
- 現在でも多くの模倣作を生み出し続けており、その価値が疑いようも無いものである事に、異議を差し挟む人はいないだろう。もし居たとしても、それはよほどのつむじ曲がりであろうと思う。
- 二つの意味
- 本作は多くの読者にとっても特別な作品かもしれないが、クリスティにとっても二つの意味で特別な作品であったように思う。もちろんその一つは作品そのものが特別であったということ、そしてもう一つは著者自身に与えた影響が特別だったということである。
- 自伝に拠れば、この当時著者を取り巻く環境は決して順風満帆とは言えないものだった。たとえば本作が話題になった当時、クリスティが謎の失踪事件を起こしていた事はよく知られている。その真意が何にあったかを著者自身が詳しく語らなかったために、今も多くの推測がなされているようだが、どんな理由だったとしても、彼女が家から逃げ出したい状況であったのは厳然たる事実であろう。
- それはこの執筆と前後した時期、クリスティを苦しめたいくつかの家庭的苦難であったようだ。母の死、夫アーチボルドの浮気、相続税を払うために屋敷を売却しなければいけなかった事、夫が失業を繰り返していた為に期せずして経済的な柱にならざるを得なかった事など。
- しかしそうした中で生み出されたこの作品は、クリスティに高い名声を与えた。それは彼女自身にとって大事件だった。つまり彼女は生活の基盤が危うい時期に、作家アガサ・クリスティとしての人生を歩む以外、他の選択肢を失ったのである。
- 大概の場合、作品の成功は作家を波に乗らせる成り行きの筈なのだが、実はこれ以降しばらくの作品は、著者の長い執筆期間全部を通じて、もっともぱっとしないものになっているように思う。それはクリスティが自分を取り巻く日常の戦いを、作家として乗り越える力を身につける修行の期間だったのだろう。しかし、一家庭人からプロの作家へとの意識の切り替えがなされた、大事な時期でもあったのではないか。実際に著者自身も、自伝の中でこの時期の執筆が極めて苦しいものであったことを吐露している。
- しかしたぶん、そんなクリスティに対して夫アーチボルドが望んでいたのは、自分の仕事を支え、尽くしてくれる平凡な主婦であったに違いない。それでは、二人の離婚は自明だった。
- つまり、デビューから本作までの期間は、いい意味でアマチュア的な意識が残っていた時期で、最も楽しんで自分のために書けた時代だったのだろう。自身の願望を思わす若い女性の冒険者や、先人の偉業に倣ったミステリなどは、そうした良きアマチュア精神を感じないでもない。一九一六年に書かれた(出版は一九二〇)『スタイルズ荘の怪事件』以来、十年で五冊というスローペースも、それを示す傍証の一つであろう。
- 本作はその頂点にある傑作である。しかし、それが傑作であったがゆえに、同時に幸せな時代を終わらせてしまうことになった。そうした意味で、『アクロイド殺し』は、アガサ・クリスティという一人の女性の人生を揺さぶった、特別な作品だったのだ。
- 次に、作品が小説としてどう特別かという問題。著者にとり、本作は作風の上でも新たな扉を開いたといえるものだろう。
- 初期のクリスティが、英国ミステリの伝統でもあったドイルの形式に支配されていたことはよく指摘される。天才型の探偵と凡人の記述者の組み合わせによるストーリー進行方法は、言うまでも無くホームズとワトスンを思わせ、とくに短編集『ポアロ登場』(Poirot Investigates 1924)などは、ドイルの影響がかなり色濃いものだった。
- 『アクロイド殺し』はポアロの長編としては三作目に当たるものだが、ここでの著者はついに先人の影からはっきりと抜け出す事に成功している。本作には探偵に次ぐ重要な役割でもあった記述者のヘイスティングズが登場せず、これによって初めて形式が大きく変わっているのである。もちろん記述者がいないこと自体は、クリスティの発明でもなんでもないが、後の作品も含めて考えると、ここでクリスティのスタイルが完成したといってもいい。
- 『アクロイド』は、ヘイスティングズにかわり、作中人物のシェパード医師が記述する物語となっている。ポアロは彼に「あなたはまさに、私の旧友ヘイスティングズの生まれ変わりのような人だ」と言い、一見するとこれまでのスタイルが形を変えて踏襲されているかのように見えなくも無い。しかしシェパード医師はあくまでも事件関係者の一員で、最近越してきたとはいっても第三者のままのポアロとは、まるで立場が違う。
- 一方、ヘイスティングズはポアロの横に同じ立場でいる人間で、事件に対しては第三者だった。これまでの物語がこの記述者の目によって、外側から活写されていたのに比べ、本作は内側から描かれている。記述者と同じ側に立っていたこれまでポアロはユーモラスで頼もしく、驚きを与える人物だったが、本作では記述者と対立する位置に立ち、ユーモラスさは残っているものの、どこか恐ろしい圧力を感じさせる。
- ポアロは外人であり、探偵であり、男性であって、多くの点から著者にとっては本作のように視点と対立していた方が扱いやすい人物だった。このポアロのスタンスが、著者のスタイルとして確立されたのが本作であったと言ってもいいだろう。本作以降、ヘイスティングズは急速に役割を失い、ポアロは単独で事件に当たり、関係者の輪の外側に立つようになっていく。
- 一方、興味深いディテイルとして、そうした意識がこの作品で芽生えた証拠ともいえるのが、シェパード医師の姉キャロラインの存在である。彼女は「中にいる探偵」といってもよく、共同体に属しているからこそ出来る情報収集や推理を披露する。本作においては対等とは言いがたいが、存在といい、手法といい、まさにポアロを裏返したような存在である。またそれが女性であるということも意味深い。
- この人物が探偵的資質を持っている事は、実は本作にとっては不可欠な要素ではない。ポアロの位置を明確に意識したからこそ、その逆の位置があることが解かり、必要以上に取り上げられただけではないかという気がする。結局、彼女の力は物語を支配せずに終わるが、つまりこれを中心にすえ、その力を存分に発揮させた作品こそが《ミス・マープル》なのは言うまでも無い。つまり本作は二人の探偵の原点(ポアロにとっては第二の)でもある特別な作品なのだ。

- トリックについて。
- 非常に衝撃的な真相である。私はクリスティは意外な犯人の創造に長けていた作家だと位置付けているが、なかでもこの作品の意外性は群を抜いている。ネタを知らずに読んで、この作品で驚けなかったという人は、ミステリを読むのをやめたほうがいい。
- この「記述者=犯人」というトリックは、究極の意外性を与えようとして編み出された超絶技巧だが、発表当時はフェアかアンフェアかで大いに話題になったという。しかし結局その後に本作は名作として読み継がれ、多くの模倣作が現れるようになった。このトリックの意味はまさに歴史的な価値を持つといっていい筈だ。
- ただ、現在このトリックは有名になりすぎ、何の予備知識も無く読んだという人は、むしろ少数派かもしれない。私もトリックを知らずに読むことが出来なかった。発表当時にまっさらな状態でこの本を手に出来ていたら・・・と考えると、自分は不幸な時代に生まれたような気がしてしまう。
- 著者の作品で、犯人の意外性を支えているのは、たえずミスディレクションの巧みさである。本作の場合、その手管は実に周到なものだ。ハヤカワ版のあとがきにもあるが、クリスティはこのアイデアを身近な人間、つまり素人から得たことを明かしているが、著者は独特のミスディレクションで、単純といえばあまりにも単純な素人的発想を、一本の長編として完璧に書ききった。これは素人には真似の出来ないことだ。
- とくに本作で特筆すべきなのは、「書いてあるのに判らない」という技巧のすばらしさだ。つまり「叙述トリック」という技法である。まず、結末の告白書で自ら自信たっぷりに明かしているとおり、シェパード医師自身が自分の犯行やそこに至る動機などを巧妙に隠している。そして、もちろんそれだけでなく、再読するとポアロの捜査が徐々に進展していく過程までが、はっきりと示されている。
- しかし読者はそれを目にしながら、その意味に気がつかない。結末でその真相がわかったとき、「だからそうだったのか」と納得できるような手がかりが、作中の随所にちりばめられていたというのに。
- だが、この構想はストーリー展開を著しく制限してしまうものであったのは確かで、中間部でややスピード感を欠いてしまっているのは少し残念だ。ほんの僅かでも真相に向かった推理を示すだけで、読者に犯人が推測されてしまうかもしれない――多分著者はそう考え、通常のミステリより用心深くなりすぎたのだろうと思う。
- 著者はそのかわりに関係者全員に事件と無関係の秘密を与え、それらを解き明かしていくことで容疑者から排除していくという展開を選んでいる。しかし、これが今ひとつ回りくどい。結末のサプライズで全てが補われてしまうので、ここを問題にしている書評はあまり見かけないが、決して問題の無い作品というわけではないと思う。
- このトリックが、フェアかアンフェアかという問題について。まず、「叙述トリック」自体がアンフェアだとは私は思わない。この種の技法は本作以降、ひとつのスタイルとして完全に認知され、多くの作者によって発展させられていき、もっと巧妙な形で使われている例がいくらでもある。
- 問題はその手管に、不手際が無いかどうかということだ。しかしこの点についても、判断は微妙だ。唯一欠点としておいたほうが無難と思えるのは、この物語がシェパード医師の記録なのか、その視点を使った著者自身の物語かという前提が無いことだ。著者自身の物語だと思って読んだ読者にとっては、犯行の描写が省略されていること自体がフェアではないと思えるのもしかたがない。シェパード医師自身がこれを手記であると明確に記しているのは後半に入ってからで、ややアンフェアの気配がしてしまう。
- この問題は、中間部の展開が迂遠すぎるという不満と同様に、著者自身がこの種のトリックを御しきれていないという部分なのかもしれない。もっとも、先駆者にそれを求めるのは酷なのは当然なのだが。